大きくする 標準 小さくする

Q.どうして七五三って11月15日なの?

A.
七五三の日付の意味 

元は、十一月の吉日を選んで七五三の行事が行われており、「十一月十五日」と決まっていたわけではない。
日 付が現在のように固定されてきたのは江戸時代の中頃。三代将軍家光が、後の五代将軍綱吉(幼名徳松)の病弱であることを心配し、これの無事成長を祈るため に、袴着の儀式を執り行ったのが十一月十五日。庶民もやがてこれにならい現在のように十一月の十五日に歳祝いを行うようになった。


十一月十五日はなぜ目出度い?

日の吉凶を占う方式の一つに二十八宿というのがある。現在でもまだ使われているが、昔は今以上に信じられていた(弘法大師が中国から持ち帰ったという話とともに有り難がられた)。
その二十八宿のうちで最良の吉日とされたのが「鬼宿日」。
この二十八宿には中国系とインド系の2つの系統があり、計算法が違うのだが、江戸時代の初めに日本で使われていた宣明暦はインド系の計算方式(二十七宿)であった。
この方式では十一月の鬼宿日は十五日。
「十一月の吉日に行う行事」であった子供の歳祝いの日付としては、最適の日だったのだろう。

鬼宿日と二十八宿◎鬼宿日とお釈迦様

「宿」とは中国で生まれた星座。二十八宿は月の通り道にある28の星座の意味。
月が28の宿の一つ、鬼宿にあった日にお釈迦様が生まれたと言い伝えられるところから、鬼宿日が最も目出度い日と考えられるようになった。
◎二十八宿の計算方式
二十八宿は古代中国の天文学から生まれたものである。これはやがてインドへ伝わり、占いの様相を帯びて中国に逆輸入され、日本にも仏典(宿曜経)として伝わってきた。
前にも書いたように、二十八宿には中国系(二十八宿)とインド系(二十七宿)がある。中国系の二十八宿は日の干支と同じく、一番目の宿から始まって、二十八宿まで行けばまた一宿に戻るという選日法である。
これに対しインド系の二十七宿は、月の朔日の宿が決まっていて、あとは順番に割り振ると行った六曜に似た選日法である。
であるから、二十七宿方式だと、月毎の鬼宿の日は毎年同じ日となる。この日付は次の表の通り。
十一月は十五日である

余 談

七五三と童謡「とおりゃんせ」
「とおりゃんせ、とおりゃんせ、ここは何処の細道じゃ、天神様の細道じゃ・・・」
よく知られた童謡のとおりゃんせは七五三の祝いに天神様にお札を納める模様を謡った歌。
何処の天神様かというと諸説あるが、川越城内にあった三芳野天神という説が有力。
神社が城内にあったため(元はと言えば神社があったところに城が後から出来たのだが)、
警護が厳しく、素振りを怪しまれでもすると、無事に出てこられないかもしれないと言うので、
「行きはよいよい、帰りは怖い」と謡われたのでは無いかと言われる。
とおりゃんせ異説・・・かわうその想像
それにしても何となくおどろおどろしいとおりゃんせの歌詞。上の説明だけでは何となく物足りないような気もする。
いろいろと想像を巡らしてみると、もしかしてと思うのが、「七つ前は神の内」という言葉。幼児の死亡率が高かったその昔は、七つを迎えるまではその子が無事に大人になるかどうか不確かな部分が多いとして、人間社会の構成員とは考えず、「神様の子」と考えた。
だから、子供が急逝してもそれは神が、自分の子を連れて行ったものと考えたわけである。
七つの歳祝いを過ぎればようやく子供は人間社会の一員として、神の手を離れるわけで、そう考えれば「七つのお祝い」は神の世界から人間の世界へ向かう最終試験のようなもの。
天神様に七つのお祝いのお札を無事に納め、子供と再び帰ることが出来るか、はたまた神が最後の瞬間に子供を連れ去って行くか。
「怖いながらもとおりゃんせ」だったのかもしれないと考えるのは、考え過ぎかな???